天台宗 中藏山 圓融寺 由緒
仰も当山は人皇四十五代聖武天皇の賴願により 天平十七年行基菩薩の開創にして年を閲する事一千二百三余年其の間大同年中傳敎大師の再興を初め天文十四年三浦貞久公の再建及慶長元年生盛の再興等幾多の変遷あり
中就永観元年圓融帝の御宇勅令を以て紀州熊野三社を勧請し王子権現と稱し之が別当職に任じ中藏山別宮寺と號す
後寛永十六年東叡山護國院生順和尚薙髪の地並に父母の菩提寺の故を以て束って修造を加へ圓融天皇の御縁由を追祟し別宮寺を圓融寺と改稱す古昔僧坊基趾多し 即ち竹本房向房東藏房安養房岡房地藏房西房谷房薬師房福藏房上房総十一趾又鐘樓經藏十王堂等跡是なり
例年旧暦九月七日より九日まで寺僧王子権現祭に奉じ其の余神事に預る多し
本 尊:大聖不動明王 弘法調刻
辨財天 傳敎作龕子常秘藏
正観音 佛舎利 東照宮名号
阿弥陁堂(本地堂)王子権現本地寂光教主建之
薬師堂 観音堂 梵天堂 帝釋堂
仁王門等有り 因に阿弥陀堂(本地堂)
熊野神社龍王様前社務所敷にあり神佛別引分の中本地佛即ち阿弥陀佛当地寺引取り位牌堂入口に安置の白木の弥陁佛是なり
本寺 東叡山寛永寺法流総持房
封境 寺社合
東西 四百八十三間
南北 四百九十五間
制札 如左
定 大庭郡上河内村圓融寺
一、当寺山内竹木を伐採並放入牛馬事
一、下草苅取木の葉かく事
一、諸鳥の巣おろす事
右之條を堅令停止之若於違犯之輩者可爲越度者也
貞享四年正月 日
川端八太夫
由緒最も尊嚴なるも恨くば古文書寳物及び堂房建物等数次の遭災並に神佛引分(癈佛棄迹)等々に依り鳥有に歸せし耶甚だ稀なり
当本堂並位牌堂建立年月日不詳と雖も按するに火災後一時的建造ならん呼
破損何所多く生じ永續維持の難きに至爲時の住職慈貫和尚大正四年大正天皇御即位の大禮典を紀念し堂𡧃改築を計画するも大正八、九年の物價昂騰の爲中止 次世慈圓和尚先住の遺志を継き檀信徒有縁の篤志者の協賛を得 昭和七年不景氣其の頂に達せし秋大事業大改築を圓成す
今の本堂是れなり
当中藏山圓融寺世代について 小納圓誠
先人先德より見聞せし事代を累毎に忘却さるゝを悼み一事たりとも後世に残さんと見聞と調査を綜合当圓融寺法脈譜の調製を發起するも中興第十七世慈堪和尚以前は唯位牌堂に安置の歴代先德位牌に依り法僧名並遷化年月日のみしか判明せず再度の火災による消失の爲か文献過去帳なし
唯慶應三年霜月(十一月)中興第十九世慈範和尚明和七寅年以降の過去帳を調製すと雖も明和六、七、八年の三ヶ年は不明な点多く以降過去帳並先人よりの見聞を綜合其の間に他寺へ轉住されし 長道慈雲長福寺へ安住快貫國分寺へ高端山貴慈恩寺へ轉住の三師過去帳並位牌墓碑も無
世代にも缼落の爲此の三師を第十八世第二十一世第二十二世に加え当住圓誠第二十二世を当寺中興第二十五世に改む
第十七世慈堪和尚以前にも缼脱なきにしも能す後世に不詳の点解明の時は速に改正を希う
墓碑なき先德の爲五輪塔建立追悼
倶會一處
昭和五十七年
第二十五世権大僧正圓誠誌す